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伊織「夏ねぇ…暑いわ」

汗もうだるような暑さ。
水瀬伊織は事務所にいた。
この事務所にはエアコンがまだない。
来年には取り付けると社長は言っているが、それも怪しい。
ただプロデューサー曰く

P「夏なんて暑くて当然だろう、汗なんて流せ流せ」

そういうことらしい。彼の家にもエアコンはなさそうだ。

伊織「そういえば、この時期か…あいつがここにきたの」

この暑さが、この季節が、彼女のある一つの思い出を掘り起こす。


社長「諸君、今日から新しく有能なプロデューサーがわが社に入社したぞ!」

伊織「諸君って、私しかいないじゃない!」

社長「ま、まあ~細かいことは置いて置こうじゃないか、水瀬君」

この頃の伊織はまだまだ子供らしい。
表と裏を使い分けているときの伊織だ。

伊織「もう、で?その新人はどこなの?」

社長「もうすぐ来る予定だから、少し待っていてくれたまえ」

その言葉を聞いて伊織はむくれる。

伊織「まだ待つのー!?信じられなーい!」

社長「もう少しの辛抱だから、我慢してくれ」

伊織「きーっ!私を待たせるなんていい度胸ねそいつ!」

社長「いや、その、なんだ、私がこの時間を、だな」

その時だった。

P「おはようございます!」

事務所の扉は勢いよく開け放たれる。
外からのもわっとした外気が事務所内に流れ込む。
それと時を同じくして、一人の男が現れる。

社長「おお!来たかね、随分と早いじゃないか」

P「憧れのアイドルに会えるって聞きましたから、気持ちが先走ってしまいました」

社長「いいねぇ~その調子でプロデュースのほうもよろしく頼むよ」

P「任せてください!」

男っていうのはどうしてこうバカなのだろう、と伊織は思った。
それでも、この男がプロデューサーならある程度の配慮は必要だろう、伊織はそうも思った。
だからこそ伊織はこの行動をとる。

伊織「ああ、どうも~!水瀬伊織でーす。これからよろしくお願いしまーす」

P「おう、よろしく!」

社長「あー来てくれて早々で悪いのだが私は少し用があるので失礼するよ」

伊織「なっ!?」

P「そうですか、お疲れ様です」

社長「今日は仕事とかはいい、ここがどんなところなのか感じ取ってくれたまえ。それじゃ」

そういって社長は外に出て行った。
そして事務所に残ったのは水瀬伊織とプロデューサーの男の二人。
初対面で話すこともあまりない、気まずい雰囲気が漂う。

伊織(あーもう!だからいやなのよ、新人って!)

そうして伊織は自ら話しかける。

伊織「もうー社長はだめなんですからーすいませんね~」

P「ん?いやべつにどうってことないだろ」

伊織「わあっ!心が広いんですね!すてき~!」
伊織(あーかったるいわ…)

そう思った。素直にそう思った。
それでも伊織は喋る。それが伊織らしさ。
器用に優しい、伊織らしさ。

伊織「それにしてもあっつい!伊織、ばてちゃいそうですー」

P「…」

伊織(…こっちが喋ってるのにだんまりとかどういう了見よ!もう!)

伊織「どうしたんですか?もしかして疲れました?それなら今すぐお茶でも…」

そう言ってこの場から少し逃げようとしたときだった。

P「そんなに無理しなくていいんじゃないか?」

この一言が放たれた。

伊織「…は?」

言葉がそれしか出なかった。
初対面で、まったく知りもしない相手。
なのにその相手はいきなりこんなことを言う。

伊織「な、なんですか?私無理なんて~…」

P「面倒くさいなら、座っていればいいじゃないか」

先ほど思っていたこと言われて伊織は心底驚いた。
確かにお世辞にも伊織は自分を偽るのが上手だとはいえない。
だがある程度はちゃんと偽れる、アイドル水瀬伊織として。
それを会って間もない人間に、一瞬で見破られた、見透かされた。
驚いたのではなく、戦慄に似た感情だったのかもしれない。

伊織「だから、なにを…」

P「その年でそんな器用な真似しないほうがいい、心に負担をかけるのはよくない」

確かに、多少はめんどくさいと思ったりやめてしまいたいと思うこともある。
でも心に負担をかけてるなんて思ったことはなかった。
自らでさえ思っていないことを他人に言われた。
それが、伊織にはどうにも腹が立った。

P「自分のままでいいじゃないか、なにを偽ることがある」

伊織「…」

P「今だって俺に気を使うことなんてなにもないだろ」

伊織「…さい」

このプロデューサーが喋るたび、いままでの自分を否定されてる気分になる。
だから腹が立つ。赤くドロドロとした、凝り固まったマグマのような感情があふれ出てくる。

P「別に元のお前が難ありってわけじゃないし」

伊織「…」

P「どうせ偽るとかだったら眼鏡とかけて可愛くだな」

伊織「うるさい!」

咆哮、と表現するべき制止の声が事務所に響いた。
ついに、マグマの進行を抑えきれなくなった伊織が爆発した。

伊織「なんなのよアンタ!さっきから説教みたいなことばっかり言って!」
伊織「自分を偽るな?偽ったほうがファンが多くなるじゃない!そんなこともわからないの!」
伊織「大体何様なの?新人プロデューサーがこの水瀬伊織になにたいそうなこと言ってんのよ!」
伊織「人がせっかく気を使って喋ってたのに、喋りかけてきたと思ったらこれって意味わかんない!?」
伊織「私だってこのままでいけたらって思うこともあるわ!でも偽りの私が好きなファンだっているの!だから私は水瀬伊織でなきゃいけないの!」
伊織「それなのに甘っちょろいことばっか並べて、聖人君子のつもりなの!?この偽善者!!」

怒涛の如き感情の爆発だった。
後半、自分が何を言ってるのかさっぱりわからなかった。
なぜだかわからない、原因不明の涙さえでてきた。
心臓がバクバクと鼓動しているのがわかる。高鳴りかたが異常である。

P「…なんだ、いるんじゃないか」

今まで黙っていたプロデューサーが口を開く。
いる、と言った。

P「確かにアイドル水瀬伊織が大好きだというファンの人もいる」
P「でも、その人たちはこんなに苦しそうにしている伊織を見てどう思うかな?」

ドラマにでもありそうな台詞だ。
だが実際に言われるとなるとなかなかどうして。

P「苦しんでまでアイドル水瀬伊織でいられるのなら、それはファンも辛いと思う」
P「俺はずっと思ってた。本当の水瀬伊織ってどんな人物なんだろうって」
P「本当に笑ってる水瀬伊織の笑顔って、どんなものだろうってね」

そこまで言って、伊織が口を挟む。

伊織「…変わらないわ。偽りのものも、本当のものも」

すかさずプロデューサーが話し出す。

P「いいや違う。全然違う」
P「以前の話だけど、俺は伊織のライブを見にいったよ」
P「舞台の上での伊織は輝いていたし、笑顔もすごかった。まるで作られたかのように感じ取れてしまうほどに」
P「伊織は笑っていた。アイドル水瀬伊織は笑っていた」
P「でも、やっぱり俺は気になったよ。水瀬伊織は笑ってないのかなって」

一息置いて、また話し出す。プロデューサーも止まらない。

P「それで、ライブの後半でやよいちゃんがゲスト出演した」

そこでなんとなくどのライブのことを言っているのか見当がついた。

P「二~三曲二人で一緒に終わってそれでライブが終わった」
P「その曲を歌ってるときからね、ちらちらっと垣間見たんだ」
P「あっ、これが水瀬伊織の笑顔なのかもって思った」
P「でもやっぱり、舞台の上だからなのか伊織はアイドル水瀬伊織のままライブは終わってしまった」
P「それで残念だなって思って舞台の袖に去っていく君たち二人を見たときだった」
P「いたんだよ、俺が求めてた答えが」
P「満面の笑みで笑ってるやよいちゃんに対して、ちょっと照れつつも満面の笑みで返す伊織」
P「その笑顔が答えだった。ずっとその答えを見たかったんだ」

そこまで言ってまた一息つく。
大分冷静になった伊織が、再度口を挟む。

伊織「なにそれ?きもちわるい!さっきから本当のだとか偽りとか」

P「まあなんだ、今自分で言ってて自分でもちょっとそう思ってる」

伊織「バッカじゃないの?どうせ偽ってるほうがいいんでしょう?あんたらファンは」

伊織とて多少なりとも自分の評価くらい知っている。
その中に当然、アイドル水瀬伊織が好きだと言ってる人は少なくない。
故に、やめることはマイナスでしかないのだ、と自分の中で思い込んでいた。

P「そんなことない!」

ここにきて初めてプロデューサーが大声を出した。
それにも驚いたし、なにより偽っているほうがいい、ということを否定したことに心底驚いた。

P「こいつをみてくれ」

そういって、かなりの分厚さになった紙の束を鞄から取り出してみせる。
ざっとみても、五十枚以上はあるだろう。

伊織「…なによこれ?」

P「アンケートだ」

伊織「アンケート?」

P「そうだ。水瀬伊織についてのアンケートだ」

伊織は一番上の紙を取って見てみる。確かにアンケートのようだ。
ざーっと見て、目に留まったのが一番最後の質問だ。

Q、本当の水瀬伊織が見てみたいと思いますか?

あほらしい質問だ、どうせ見たくないと書かれているに違いない、と伊織は思った。
だが思っていたものと書かれていたものは正反対だった。

A、見たい

信じられなかったのであろう、伊織は目を見開いた。

伊織「う、うそ…こ、こんなの!」

また何枚か手にとって見る。でもやはり、最後の質問だけはいつも同じような答えだった。

見たいです!
いやー気になるよね~見たい。
全身全霊で見たいぜ!
見たくないとかなんなの?バカなの?死ぬの?
正直たまらんです。
見たいのは確定的に明らか。
ゆっくり見させてね!

全部が全部、見たいという内容の回答だった。

P「正直最後の質問以外はあまり関係ないから集計はしていないんだが、最後だけ集計したんだ。そしたらなんと、77人中77人全員が見たいと回答していた。こいつらは確かに普通のファンよりコアなやつらが多いからこの回答になったのかもしれないがな」

笑いながらそう言う。だが伊織はそれどころではなかった。
自分がそう思っていたものがこうも簡単に覆ることなど経験したことがなかった。

伊織(私を、見たい?アイドルとしてじゃない私を?)

だったら今までの自分はなんだったのか?全て無駄だったのか?
伊織は徐々に崩れ落ちる。アイドル水瀬伊織が崩壊してしまう。
そんなときプロデューサーが喋りかける。

P「決してアイドル水瀬伊織が無駄だったわけじゃないぞ」

伊織「えっ?」

まるで思っていること全てが見通されている気分に伊織はなった。

P「まずアイドル水瀬伊織として出てきたろ?それはそれは皆血が沸いたよ」
P「でもさ、人間って欲深い生き物って言うだろう?だから新しい伊織ってのを見てみたいんじゃないかな」
P「つまり、今の状況って過程がアイドル水瀬伊織で、その結果としてみんなは新しい水瀬伊織を見たいと思ってるんじゃないかな」

伊織「新しい、私…」

P「俺の場合は新しい、というよりそのままの伊織を見たいんだけどね」

そう言ってまた笑う。今まであった険悪なムードなんてなかったかのように。

P「まあ、そういうわけだから。俺が仮に伊織のプロデューサーになったらそういう方向でいくからよろしく!」

それだけ言って、呆けている伊織に右手を差し出してくる。
所謂握手を求めているのだろう。
きっとここは握手をすべきなのかもしれない。
でも、素直にしてしまったらなんだか負けた気がすると思った伊織はこう言う。

伊織「…汗でべったべたの汚い手で、アイドルと握手なんて許されないわ」

P「おお!そいつは失敬、んじゃ洗ってくるか~」

そうして水道のところまで走っていく。
一刻も早く握手したいのか、さっさと手を洗いタオルで拭いて戻ってくる。

P「さあ、これでいいだろう」

再度、右手が差し出される。
気持ちのいいくらい迷いなく。

伊織「…今」

P「ん?」

伊織「アンタはどっちとしたい…?アイドル水瀬伊織か、それとも」

P「何度も言うようだけど、俺、水瀬伊織が気になるんだよね」

伊織「…そう、なら」

ゆっくりと右手でプロデューサーの右手を掴む。

伊織「せいぜい、私のために働きなさいよね」

P「…ああ、まかせとけ!いやっほう!」

まるで子供のようにはしゃぎだすプロデューサー。
その姿を見て伊織はなんだか笑いたくなってくる。
それに、さっきから妙に心が軽い気がする。
そして、久々にドキドキワクワクしている。
だから笑った。頬をほころばせて。

P「おお!それだよそれ!ティンときた!はじめまして、伊織!」

はじめまして。
それならば、こう切り返すのが普通じゃないだろうか。

伊織「…ええ、はじめまして。アンタが水瀬伊織のファン第一号よ、にひひっ」

蝉の鳴き声がうるさいなか、二人は長い時間笑っていた。



伊織「…夏ねぇ」

あの夏はいつだったか、それすら覚えていない。

伊織「…なんてね、忘れるわけがない」

そんな冗談を一人で思い、呟く。
あの時から少しずつ素の自分を出していって、今ではほとんど水瀬伊織で舞台にも立てるようになった。
でも、一人を除いて全てをさらけ出すことはしない。
それがまた、水瀬伊織としての証にもなるから。

伊織「にしても、思い出してみればあの時、やよいちゃんとか言ってたわね、犯罪者臭いわ」

思わずプッと吹き出してしまう。
今事務所に誰もいないからこそ、出来る芸当である。

伊織「でも、暇ねぇ」

夏の暑さの限界は見えなく、まだまだほとばしるように暑い。

伊織「アイツ、今なにしてるのかな?」

そう思い、携帯を取り出して電話をかける。
相手はそう、決まっている。

伊織「あ、もしもし」

P『おう、どしたー伊織』

伊織「どうもこうも、暇なのよ」

P『俺は仕事中ですが』

伊織「つっかえないわね、遊び相手にも出来ないなんて」

P『散々の言われようです、まあもうすぐ終わるけどな』

その一言で伊織の顔が明るくなる。
無論、プロデューサーには見えない。

伊織「ホントに?だったら今日一日付き合いなさいよ」

P『えーこの後はビールにつまみでアニメって思ってたんだけど』

伊織「太るわよ?」

P『太ったら痩せる、これでいいだろ?』

伊織「ふふっ、そうね」

用もなく電話なんて、アイドル水瀬伊織だったらしなかっただろう。
これは一種の成長なのかもしれない。

P『まあいいか、じゃあ仕事もうすぐ終わるから、今ドコ?』

伊織「私のほうから出向くから、アンタこそどこよ?」

そう言って自分の荷物を肩に下げる。
そして事務所の扉のほうへと歩いていく。

P『あーここどこだっけ』

伊織「あんたね…」

P『あー!わかったわかった、今は…』

伊織「ふんふん、わかった、すぐ行くわ」

P『あんまり急ぐと春香みたいに転ぶぞー』

伊織「…少しでも早く会えるなら、転んでもいいわ」

P『あーごめん、いま車通って聞こえんかった、なんだってー?』

伊織「なんでもないわ」

P『ならいいけど。そーいやさー…』

電話を掛けながら伊織は事務所を後にした。
アイドル水瀬伊織が好きだったファンの人には多少悪かったと伊織は思っている。
でもやっぱり、プロデューサーが証明してくれたものを信じたい。
だからこそ、彼女は偽りを捨て、自分を表に出した。
それにだ。

―――俺の場合は新しい、というよりそのままの伊織を見たいんだけどね―――

こう言われたら、仕方ない。
それが恋する乙女というものだから。
2009.07.31 Fri l アイドルマスター l top ▲
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