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「ただいま」
「おかえりー。姉ちゃん、お仕事お疲れ様」
「うん、先にお風呂はいるってお母さんに言っておいてくれる?」
「わかった。ゆっくりしてね」
どたどたと駆けていく弟の長介。その後姿は、まだアイドル候補生だったときの亜美が重なる。笑っていた亜美が見える。
私はゆっくりと、本当にゆっくりと歩く。お風呂まで、脱衣所まで。ときたま意識が遠のいて、足元がふらつく。
やっとのことで脱衣所についた。どんな道よりもけわしかった気がする。お風呂と脱衣所を仕切るガラス扉はくもっている。中に入れば温かそうだ。
上着、ズボン、スポーツブラ、パンツ。すべてを脱いだ私は、鏡を見た。ひどくやつれた顔、気だるそうな腕、全身に漂う黒いもやもや。長介の前では隠していたもの全てを噴出した私。
アイドル以前に少女に見えない。あれだけ好きだった私は今じゃ見る影も無くて、どこかへ消えている。
大丈夫、きっとお風呂に入れば、大好きなお風呂に入れば全て忘れられる。全部なくなる。そう信じ、私は扉を開ける。
ふわっと包みこんでくれる温かい空気と満タンに入ったお風呂。これが私はすごく好き。何だか鍋いっぱいのくりーむしちゅーを思い出して、幸せになるから。
お風呂に入る前に頭と身体を洗ってしまおう。湯船が汚くなってしまったら妹や弟たちに悪いから。
ゴムをほどいて、少しだけゴム癖がついた髪の毛に湯船からすくったお湯をかぶる。熱い、でも今はそれでもものたりない。
しばらく何もできずぼーっとして、ぶるっとした身体に気づいて、もう一度お湯をかぶる。そのまま頭を洗い出す。
頭を刺激したせいかそれまで止まっていた、止めていた考える力があのことを思い出させる。
亜美たちの765ファン感謝祭、二百人のファンのみんなと騒ぐ小規模なライブ。私の武道館ライブと比べれば、アリさんとゾウさんほどに差があるライブ。
驚きの連続だった。
もともと亜美があの歌を初めて歌うライブだってプロデューサーに聞いていたから、それを歌うまでは驚くなんてちっとも思っていなかった。
けれど違った。伊織ちゃんも律子さんも真美も、全員が踊っていた。歌っていた。ライブだから当たり前なんだけど、とにかくすごかった。
私にはわかったんだ。みんながそこまで歌え、踊れた理由。亜美がいたから。みんな亜美に引っ張られて、限界以上を出せたんだと思う。
伊織ちゃんなんてほんとは歌うはずだった新曲を歌わないであそこまでやってのけたんだ。どれだけの思いを犠牲にして、あの舞台に立ったのか、こっちが痛くなるくらいにわかる。
…痛い? ふと、その言葉に反応した。ぼーっとしたまま右手を見る。指の爪が手の平のお肉に食い込んで、血が出ていた。私はゆっくりと手の平を開ける。
伊織ちゃんだけじゃない。律子さんに真美も、亜美っていういんりょくに引っ張られていたんだ。誰でもあの場にいればそうなるはず。
その場にいた私が言うんだから間違いない。あのライブは間違いなく亜美に引かれる、そんなライブだった。私やプロデューサーも例外じゃなかった。
そんな状態で歌われてしまった亜美のゼツボーを込めた歌『黎明スターレス』。
その前に歌われた真美の『黎明スターライン』も間違いなくすごい出来だった。会場の盛り上がりも言うことなし。みんなの身体は熱く火照っていた。
でも亜美と『スターレス』はそんなもの無かったかのように、全部奪った。熱気も、盛り上がりも、歓声も、空気を吸う自由でさえも。
終わった後に残ったのは、まるで大型台風が全てを飲み込んで去っていってしまった被災地のように静まりかえる会場だけだった。
…正直に言えば、『スターレス』を聞いたときの私はこう思った。

―――大丈夫、これならまだ亜美を照らせる。

そう一人で嬉しがっていた。その嬉しさの勢いのままプロデューサーを見上げた。そしたら。
一粒の汗もない、口をぽかーんと開けたプロデューサーがいた。滝のような汗をかくあのプロデューサーから汗の臭いがしないのは初めてだった。
会場に視線を移すと同じことが起きていた。二百人全員、声も出さずただ歌いきった亜美だけを見て口をぽかーんとしているだけ。
そしたら不思議なことが起きた。ううん、当たり前のことだったのかもしれない。
先ほどまで亜美を照らせると思って喜んでいた私の身体の一部がすごく冷たいのがわかった。その部分は。
心。
そうなったのか、それとも気付かないふりをしていただけなのかわからない。私の心だけが息をしていなかった。
心だけでは収まらなかった。毒が回るように、息もつかせないぜったいれいどが私の身体をゆっくりゆっくりとむしばみはじめた。
私は怖くなって、怒りたくなって、心の中で必死に暴れた。でもだめだった。私の身体は、亜美のゼツボーに、絶望させられてしまったんだ。
それから私は何も喋れなかった。プロデューサーも同じだった。一緒に事務所に帰って、私は何も言わず帰ってきた。プロデューサーも自分の机で突っ伏して動かなかった。
このぜったいれいど、お風呂のお湯で何とかしたい。だけどとてもじゃないけど足りない。もっともっと火傷するくらいじゃないと足りない。
それでもお風呂に入るたびにやってきた身体を洗う、頭を洗う、湯船につかるの三つのいちれんの動作は染み付いていたようで、気付けば私の身体は湯船につかっていた。
いつもは楽しいことが思い浮かぶのに、今日は何も考えられない。思い返すことができるのは歌いきった亜美の顔だけ。こびりついて離れない。
あんな曲を歌った後で、あんなやりきった顔ができる。私にはできそうにない。亜美は、ゼツボーの先を見ているようで、怖かった。
いつからこうなったんだろう。亜美と春香さんの公開生放送のとき? 亜美が自分の曲をもらったとき? 亜美と私が服を買いに行ったとき? 違う。
プロデューサーと出会ったとき。たったそれだけ。
私も亜美もアイドルとしてみんなの前で歌えるようになって、知らなかった気持ちにも気付けた。それは全てプロデューサーのおかげで、プロデューサーのせい。
そしてぜったいれいどに包まれた私の心の隅にともった思い。ひどくわがままな言い分。
プロデューサーに出会っていなければ、こんなことにはならなかった。
歌を作ってくれたおひげのおじいさんはスターレスを泣きながらに作ったって言っていた。おじいさんは何もしていないのに。私たちに巻き込まれた被害者になってしまった。
もしあの時プロデューサーが『スターレス』を止めていればおひげのおじいさんは救えたかもしれない。
プロデューサーがプロデューサーじゃなければ、亜美はもっと別の道を歩んでいたかもしれない。
なら…。
プロデューサーなんて、
いなければよか
「ダメ、違う!」
叫んで、思いきり湯船に顔をダイブさせる。違う、違う。こればっかりは否定せずにはいられない。そんなこと認めてしまったらこれまでの亜美の全てが無駄になる。
そこまで言う権利は私には、ううん、誰にもない。亜美は全てをかけて、プロデューサーのために歌ったんだ。それがわかるから、プロデューサーは否定しちゃいけない。
息が、零れる。頬をつたい耳を掠めてそのまま空中へ溶けてなくなる。いっそ私もこの水泡たちと一緒に消えてしまいたい。
息が、苦しい。そんな中で考える。絶望って何だろう? 私はその端っこの部分でさえ感じたことがない。
息が、無くなる。例えばこのまま息をしないでずっと潜り続けて、意識があるギリギリまでお風呂に潜り続ければ絶望が感じられるだろうか。死んじゃう、という絶望を。
胸が、痛い。小さな外見じゃなくて、失恋したとかの精神的なものじゃなくて、確かに胸が痛い。酸素を探してる。
鼓動が、早くなる。水を振動して私の耳に救急車のサイレンばりにうるさく鼓動している。でもまだ潜ってられる。
まだ、いける。そう、まだ平気。まだ大丈夫。平気、平気へいき平気へーきへきへいきヘイきへいキへい
「―――ッハァ! ハァーハァー! ハァーハァーハァー………」
耐えられず顔を思いっきり上げる。
無理だった。まだ潜っていられたけど、酸素が欲しいと思う気持ち、このまま潜っていたら死んじゃうかもしれないと思う怖さ、すぐ手に届く救い。
私は、亜美が感じている大きな絶望のすんぜんにすら辿り着けなかった。私は絶望から逃げ出したんだ。そこに辿り着くことすらできない。私は、それに絶望を感じた。
怖かった。苦しかった。辛かった。もう一度潜ってギリギリまでなんて考えたくも無い、身体が震える。大好きなもののお風呂にこんな絶望を感じるなんて。
「…うぇ、うう、ぐっううぅ、うええぁあぁ」
涙が出てきた。大声で泣くのは堪えたけど、泣くことは堪えられなかった。やっと、わかった。
亜美がどれだけ絶望していたのか。そしてこの絶望を常に抱えながら舞台に立っていたのか。
絶望にすら、ぜの字にすら触れられない私が亜美を照らせるのか? 飲み込まれる。きっと。
でも私が泣いてしまった原因はそんな些細なことじゃなくて、もっと簡単なこと。
亜美のゼツボーの始まりを作った人が亜美のたった一つの希望。それだけ。
「プロデューサー、どうして貴方はプロデューサーなんですか…?」
ねがい、しっと、あきれ、かなしみ、私なりの絶望を込めてプロデューサーに問いかけてみる。返事は無い、きっといてもいなくても。
あれだけ自信たっぷりだった。けれど早くもそれは砕かれた。照らしても影は増えて、やがて私を飲み込んでしまう。
ああ、あの頃に戻りたい。でももう戻れない。亜美に、亜美に会いたい。亜美、亜美、亜美。
私の光じゃ照らせないよ、亜美…。


亜美のユメはかなった。シングル200万枚は初週カンバイ、もちろん先週一位。トップオブトップアイドルに、亜美はなったよ。
やよいっちと千早お姉ちゃんと亜美真美の四人でシングルチャートの一位二位三位は765プロがドクセンしちった。
あずさお姉ちゃんの『隣に…』がアオリを受けてベストテンから落っこちちったけど、もう二ヶ月前の歌だし、よいよね? むしろロングランだよね?
「何より、兄ちゃんの」
私はにっこりと笑う。シアワセだな、シアワセだな。兄ちゃんのユメを亜美はかなえられた。
ショーガクセーにあんな歌を歌わせるなんてー、とか言ってるヒョーロンカのおばちゃんもいるし、イロイロとほかにもサンピリョーロンなんだけどさ、そんでも200万だかんね。
トップだよ、トップ。うん、亜美は兄ちゃんのユメをかなえられた。担当アイドルをトップに立たせたいって兄ちゃんのユメを。
ウレシイな、ウレシイな。
「だから、兄ちゃんは」
兄ちゃんは亜美たちとやよいっちのプロデューサーだから、すっごくカブを上げた。765プロの中じゃシャチョー賞をもらってたし、何かね年末にはアカデミー賞の何とか賞をもらえるらしいよ。
来年からはプロデューサーランクもぐっと上がって、デュオやトリオのプロデュースもやらせてもらえるんだってさ。やよいっちやいおりんとユニット組めたらオモシロそうだよね。
でもそれよか、亜美と真美をちゃんとわけてデュオやりたいかな、私は。
「…でも、兄ちゃんは」
サイキンの兄ちゃんはなんだかとってもつかれててさ。私はあんましかまってもらえない。いや、いいんだよ? 私が兄ちゃんをカッテにアイシテるだけなんだから。
担当アイドルのタチバをコーシコンドーして、私は兄ちゃんのソバにいられるんだから、ワガママは言わないよ。
でも、シンパイなんだ。シゴト忙しいのはわかるけどさ。忙しくしちったのは私たちとやよいっちなんだけどさ。
「もしかしたら、兄ちゃんは」
…そんなことを、考えちゃうんだよ。兄ちゃんは私たちをトップアイドルにしたかったはずなんだ。
兄ちゃんはハッキリそう言っていたし、亜美たちややよいっちを売り込もう売り出そうってがんばってた。だから真美ややよいっちもすっごくがんばったし、私はキボーを捨てた。
兄ちゃんにヤサシクされたいとか、兄ちゃんにアイサレたいとか、キボーするのを止めたんだ。私は悲しい歌のが得意だし、悲しい歌にトッカするのがイチバンだって思ったから。
ゼツボーこそが『アイドル双海亜美』をトップアイドルにするって思ったから。
「…でも、もしかしたら、もしかしたら兄ちゃんは」
…コンナコト考えくてよいのに、考えないほうがよいのに。それでも考えちゃうんだよ。
もしかしたら兄ちゃんは、ソンナコトを望んでなかったんじゃないかな、ってさ。

トップアイドルはいそがちいよ。しかも亜美はまだショーガクセーだからね、ホーリツで夜はオシゴトできないんだ。
ガッコのシュッセキボのコピーをにらみながら、ギリギリのスケジューリングだよ。あ、にらんでるのはぴよちゃんだけどね。
兄ちゃんは亜美よかいそがちいし、亜美はそーいうのよくわからないから。
「はい、オーケーでえっす」
ホイ、ディレクターのオッケーだ。今はテレビの音楽バラエティー番組?のサツエイでね、でも今日のオシゴトはこれで終わりだよ。
うーん、確かにもう太陽さんはしずんでるけどさ、まだヨイノクチ。これ以上働けないってのはないよねえ。
「テレビ局の兄ちゃんたち姉ちゃんたち、今日もアリガトねー!」
私は両手を振ってみんなにお礼を言う。そしたらさ、
「ああ亜美さんはそーいうのいいから早く着替えてください。あと、…十三分で局から出てくださいね。おーい、765プロの双海亜美さんに車回しとけー。裏にだぞー」
別の番組ディレクターにソンナコト言われた。いや、別にいいけどさ…。

チョッパヤで着替えてテレビ局から出たよ。脱いだ衣装は今晩のうちには765プロまで届けてくれるらしい。何か、トップアイドルだよね。
言われたとおり局の裏に来たら、タクシーじゃなくてハイヤー止まってるし。うん、飾りが付いてないからハイヤーだ。ハイヤー高いのにね。
「765プロダクション様ですね。一二三ハイヤーの遠藤と申します。どちらにでも、ご指定先までお送りするよう承っております」
おじいちゃんスレスレーなカンジのおじちゃんが亜美に頭を下げる。亜美もあいさつしなきゃね、って思ったら、
「765プロダクションの四条貴音と、こちらは双海亜美にございます。丁寧なごあいさつ痛み入ります。では、渋谷の事務所までよろしくお願いいたします」
あれれ、亜美の後ろにお姫ちんがいたよ! ゼンゼンケハイがなかった。やるねえお姫ちんは。
「急に申し訳ありませんが、便乗させていただきたいのです。良いですか、亜美」
「もっちろんだよー!」
亜美は指を鳴らしてヘンジしたよ。だって亜美はお姫ちんをスキだからね。

「どして首都高乗らないのー?」
後ろへと流れてくビルの灯りをながめながら、亜美は隣に座ってるお姫ちんに聞いてみた。
お姫ちんが下を行ってくれって言ったから、ハイヤーはイッパンドーを走ってるんだな。シンバシからトラノモン抜けてタメイケへ。うん、ビルばっかし。
「もう少しお待ちなさい、亜美。見せたいものがあるのです。ああ運転手殿、次の首都高速道路はくぐらずに左へお願いいたします」
車は左の車線へ。お、何かホテルみたいなビルに千早お姉ちゃんのCDのカンバンがあった。縦に三つ。
「今、千早お姉ちゃん『inferno』のカンバンがあったよ! やるねえ千早お姉ちゃん」
亜美がお姫ちんに言ったら、
「左に曲がればたくさんありますよ。赤坂見附から渋谷までは、そういう通りです」
お姫ちんはヨユーシャクシャクなカンジで返してきた。ソーイウトーリってドーイウトーリなのかな? ハイヤーはお姫ちんのセリフに合わせたみたいに左に曲がる。
「ほら右手に。雪歩の重機のこまーしゃるの」
お、ゆきぴょんがアンゼンボーかぶったカンバンだ。
「左には響がいますよ」
あはは、あっちのカンバンじゃひびきんがハンバーガーにかじりついて笑ってるよ。
「あちらのしあとるこーひーしょっぷには春香。上にはうぃすきーのこまーしゃるのあずさ。奥の美希は化粧品ですね」
ダテ眼鏡かけたはるるんが湯気たつコーヒーさしだしてるカンバンに、ビルの上にはグラス持って色っぽく寝そべってるあずさお姉ちゃんのカンバンだ。
向こうじゃミキミキがまっ赤なボトル持ってるカンバンもあるし。スゴいね、765プロばっかしだね。
「しーでぃーの宣伝もありますよ。今度発売する伊織の『DIAMOND』が、あちらに」
うわぁお、いおりんが何人もずらって並んでるよ! ダイヤみたくカガヤくいおりんがピンクの衣装でチャーミングに笑ってる。
「次は圧巻ですよ。やよいの『キラメキラリ』です」
ひゃあー! さっきのいおりんもスゴいけど、こっちはまたベッカクだよ! 右も左も、でっかいカンバンのでっかいやよいっちだらけだ!
「赤坂見附から渋谷に向かって、右に連続七面、左に連続八面に連続四面と聞いています」
お姫ちんが説明してくれた。そんなにかー。すっごいセンデンコーコクだねー!
「やよいっちも、やっちゃった兄ちゃんもスゴいねー!」
「凄い、と言うことならあなたも引けを取りませんよ、亜美」
「ふえ?」
やよいっちと兄ちゃんをホメたら、お姫ちんは少し固い顔で言ったよ。前を指差す。ああ、もう少しでおっきなコーサテンだね。
「…ちょうど赤信号ですね。亜美、四方を見るのです。ここは表参道交差点です」
え、あ。
「左手には『黎明』の四列二段の八面看板」
ウソ。
「左斜め前には、あいすくりーむしょっぷの亜美の、では無く真美の看板が」
ナンデ?
「右斜め前、上は亜美のふぁっしょん雑誌の広告看板で、その下はすのーぼーどをしている真美の看板」
ドーシテ?
「右は、みむみむとかいうぶらんどばっぐの広告です。これは亜美ですね」
こんなに。
「右手後方には、やはり『黎明』が。こちら側は横に四連」
なってんの?
「表参道交差点は、『あいどる双海亜美』の交差点ですね。市井ではそう言われているようです」
…スッゴいなあ。亜美、知らなかったよ。兄ちゃんも誰も教えてくれなかったし。
「亜美、もう、良いのでは無いのですか?」
お姫ちんは、続けてそう言ったよ。スッゴくシンケンな顔で。
「これが、亜美の望んだ宇宙なのですか?」
「765プロダクション様、車、動かします」
お姫ちんの言葉が終わる前に運転手のおじちゃんが言って、ハイヤーは走り出した。

「亜美の、やよいの、皆の活躍で765ぷろは大きくなりました」
お姫ちんは横を向いたまま、亜美の方を向いたまま、セツセツと語るよ。
「しーでぃーを出せばみりおんひっと。てれびに映らない日は無く、こまーしゃるに使わせて欲しいと言う声はひっきりなしに」
うん、そーだね。亜美はトップアイドルになったし、みんなもトップクラスのアイドルばかりだ。
「もちろん、皆の努力の結果です。皆が歯を食い縛って仕事に励み、またそれぞれのプロデューサー殿が骨折り靴すり減らしたからこその栄誉」
うん、そーだよね。兄ちゃんだけじゃない。みんなのプロデューサーが、シャチョーやぴよちゃんががんばったからだ。
「それを否定する意図はまったくありませんが、私は恐れを感じています」
オソレをカンジる? 何でさお姫ちん?
「皆が皆、熱病にやられたような顔をするようになりました。霞がかった目をするようになりました。アイドルだけではありません。プロデューサー殿たちもです」
ああ、そうかもね。ブドーカンでのやよいっちたち、ファン感謝祭の亜美たち、みんな上のステージに上がったもんね。
舞台ってイミじゃなくてさ、アイドルとしてアーティストとして一枚ダッピしたよ。
「…伊織は昔、『わたしは一番』と歌っていました。今は『狙うのはなんばーわん』と歌います。何も歌詞が違うだけではありません。歌の心を己が心に映したかのように。伊織は、初めからなんばーわんでしたのに、どうしてそれを狙わねばならないのでしょう」
んー、お姫ちんそれはおかしいジャン?
「ナンバーワンは、亜美だよ。『アイドル双海亜美』がナンバーワン。そりゃいおりんが新曲出したらいおりんに取られちゃうかもしんないけどさ」
それでも今は亜美がナンバーワンなんだよ。
「亜美、亜美、それは違います。私たち一人一人が、いいえ、生けとし生けるすべての命が、なんばーわんでおんりーわんなのです!」
「チガワナイよ。オンリーワンだけならそーかもだけど、ナンバーワンは、ヒトリだけ。アイドルのナンバーワンは亜美だよ。そんで、ナンバーワンアイドルのプロデューサーは兄ちゃんだけなんだよ」
そうだよ、兄ちゃんだけがナンバーワン。亜美と真美が兄ちゃんをナンバーワンにしてあげたんだかんね。
「プロデューサー殿は、亜美のプロデューサー殿は、そのような考えを望まれてはおりません。あのお優しい方が、そのような考えをお望みのはずがありません!」
…へーえ、ふーん、そーなの。お姫ちんは、そー思うんだ。
「…運転手のおじちゃん、車を左にして止めてよ。ジムショすぐそこだし、亜美はこっからは歩くね」
「亜美!」
お姫ちんが亜美の手を握った。私はそれをフリハラウ。ハイヤーはランプを点けて止まった。
「じゃ、おじちゃんお姫ちんはちゃんとジムショまで送ってってね」
私はドアを開けて車を出るよ。
「亜美、亜美! 話を聞いてください、亜美!」
お姫ちんが手を伸ばしてくるけど、私はムシした。ドアは運転手のおじちゃんが閉めるっしょ。私は渋谷の駅の下を抜けて帰ろっと。ああ、何だかほっぺたが冷たいよ。ナンデだろ?
「…ああ、これが『目から汗が』って言うんだね、きっと」
私は、ほっぺたをぬらす汗をぐいってふいた。


私は、どうすればいいんだろう。あんなに暗くて、絶望の塊の中心にいる亜美をどうすれば助けられる? ううん、どうやれば触れらるのかすらわからない。
亜美の絶望を世界は受け入れた。一度は希望を手にしようとした人たち、もまた悲しみの輪の中に戻ってしまった。『キラメキラリ』じゃみんなを照らしきれなかった。
私は、あの日お風呂で絶望を感じたときから涙を流すことはなかった。
流せるだけを流してしまった私の目に、涙は残っていなかったら。でも私は笑うのが仕事だからそれでよかったのかもしれない。
笑うのが仕事だなんて、私らしくもない。でも、私は私を、いまだにみつけられないでいる。某大手会社の新しい薬のCM撮影。自分のまとまらない心とは裏腹にカメラの前の自分はきっちり笑顔を作っていた。…笑顔は作るものなんかじゃないのに。
私はいつから笑顔を作るようになったのかな?
そう考えながら、撮影はなにごともなく終わった。スタッフのみんなからは褒められるばかりだった。でも私は素直にありがとうございますと言うことができなかった。
―――いやー今日は亜美ちゃんじゃなくてよかった。最近ちょっとおかしいからあんまり関わりたくなくって。
―――昔の亜美ちゃんのほうがよかったわ。だって今の亜美ちゃん、理解できないもの。
次々と私の耳に聞こえてくる悪態。それは理解できない者を見たような口ぶりだった。
確かに、私だって今の亜美より昔の亜美の方が好きだけど、スタッフのみんながそう言うと私は少しだけムッとした。
亜美がどれだけのものを犠牲にしてきたのか知らないのに、自分たちの手に負えなくなったらあっという間に手の平を返すこの人たちが許せなかった。
だから私はちゃんとお礼もできずに走り去ってしまった。楽屋に戻りたくもなかった。だから私はただ走った。目標を打ち壊された私が行く場所なんてないのに。
大きなビルから飛び出して大通りに出る。みんなが私に気付くけれどお構いなく走る。だけど周囲の声がどんどん多くなるにつれてその声がすごく嫌になった。
大通りから出て細い路地を行く。小さな私なら通り抜けられる道。追ってきている大きな人たちでは到底通ることはできない。声が遠ざかっていく。
しばらく迷路のような路地を、迷走している私の心と一緒になって走って、息も絶え絶え、足もガクガクになってきたところでようやく路地を出た。
ぽつーんと、何の変哲もない公園があった。なのに溢れ出るほどの感情がここに滞留していた。きっと私にしか分からない、そんな思い出たち。
「亜美、真美…」
いつだったかな。私と亜美がまだ全然売れていなかったころ、二人で一緒に服を買いに行ったことがあった。その帰りに私たちは『アイドル双海亜美』に出会った。
出会えて私は心から笑った。だけど亜美は走り出した。もしかしたら、今の亜美のきっかけはこれだったのかもしれない。
その後走り去った亜美は家にも帰っていなくてみんなで大騒ぎ。だけどプロデューサーが無事に亜美を見つけ出して終わったんだっけ。
見つけた場所は大きな坂の上にある公園。そこで一人で歌っていた亜美を見つけたんだーってプロデューサー言ってたっけ。
「亜美の声が聞こえたんだ、聞こえるはずない距離だったけど僅かに、でも確かにって」
確か、そう言っていたっけ。少しだけ自慢げだった。自分は自分のアイドルとこんなにも繋がっているんだって。そんな風に誇るプロデューサー。
それなのにどうして? ここにいて見つけてもらった亜美にだってわかってるでしょう? 亜美だってプロデューサーに愛されているんだよ? そして。
最初に愛されたのは、亜美なんだよ?
だけど亜美はそれを否定した。認めてはくれなかった。そんなのってないよ。あんなにも愛されてるのに愛されていないなんて、まるで親の愛を確かめる子供みたいだ。
…あれ? 今すっごく大切なことに気付いた気がする。だってつまりそれって、亜美は…。
まだ愛されたいっていう、"希望"を持ってるってことじゃないのかな?
「おっ? やよいじゃないかー、はいさい!」
「ひ、響さん!? ど、どうしてこんなところに!」
大変なことに気付いた私の前から、健康的ですたいりっしゅな服装の響さんが歩いてきた。今日はペットを連れてなく、お一人のようだ。珍しい。
「それはこっちの台詞だぞ? 自分はこの辺の近くに住んでるからね。散歩をしてたってわけさ」
「そう、なんですか」
「やよいこそどうしてこんな公園にいるのさ? こんなところにくるアイドルなんて自分と亜美くらいなもんだぞ?」
「…亜美がですか?」
「うん。たまーに見かけるんだけど自分を見つけるとささっと帰っちゃうんだよね。いくら完璧な自分でも傷つくからやめてほしいんだけど、中々会えなくてさー…そうだ! やよいからも言ってくれない? 響がたまには逃げないで一緒に散歩でもしようーって言ってたって!」
純粋無垢な瞳。ちょっと前までの私もこんな目をしてられたのかな。今はちょっとできそうにないけど。…もしかしたら、亜美はこの目から逃げていたのかな? あのときの私がこんな瞳をしていたから、耐えられなくて逃げてしまったのかな?
確かに、今の私にも分かる気がする。何も恐れない、何者も信じる透き通った瞳。あまりの綺麗さに背を向けて逃げ出したくなる気持ち。今の私の心にもあった。
「…やよい?」
「え、えっと。最近私も亜美と、その。あまり仲がよくなくて、伝えられるかなーって」
「えっ!? 喧嘩でもしたのか?」
喧嘩って言えるのかな? 何かそれよりもたいそれたことになっている気がするんだけど。ちょっとわからないや。でも喧嘩だったとしても仲直りできなさそうだなぁ。
「ちょっとやよいってばー! さっきからぼーっとしすぎだぞ! なんかいろいろあるみたいだから一回自分の家に行こう! 話はそこで聞くぞ!」
「えっ! あのちょっと響さん」
「問答無用!」
強引に手を引かれた。差し伸べてもいないのに響さんは私を無理やり引いてくれた。
…これでいいのかな?
もしかしたら、こんなことでいいのかな?

強引に連れられたまま、私は響さんの家に向かうことになった。二人ともTVに出演しているアイドルなので隠れ隠れ移動して、見つかりそうになりながらも何とか家に辿り着くことができた。
響さんの家はどこにでもあるようなアパートだった。唯一違ったのはペット可のお部屋だったということくらい。
とてもアイドルをしている人の家とは思えなかった。私も人のことを言えたことじゃないのだけど。
「さあ入った入った!」
ペットでいっぱいの部屋を想像していたけど、今はいないようでやけに部屋が広いなと感じた。いつもペットの話を聞かされていたからついついそう考えていたのかもしれない。
「あの、ペットたちはいないんですか?」
「今日はちょっとお出かけ。みんな健康診断を受けにね。自分一人だけじゃ手が回らないから、知り合いの獣医さんにお願いしてるんだぞ」
「そうなんですか」
「うん! やよいはコーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「…紅茶でお願いしまーす」
はいさい!と元気に声を上げて、台所で準備をしている。失礼かもだけど、すごく意外だった。フリーになった私は部屋に置いてあるテーブルの前に座った。
テーブルの上には動物専門の雑誌「Zoo」や真新しいファッション誌などが置いてあった。これもまた意外だった。
私がイメージしていた我那覇響さんはもっとこう、天真爛漫というか、常識知らずというか。そう考えていたから。でもちゃんと気を使って飲み物も入れてくれる素敵な人だった。
…私は勘違いしているかもしれない。双海亜美のこと、何でもわかるって思ってたけどそれはあくまで想像上だけ。
私は本当の亜美に、亜美の生活に触れたことなんてなかった。ひゃくぶんはいっけんにしかず。響さんは知らずのうちに私にそう教えてくれた。
「はい紅茶。甘めにしてみたけど大丈夫?」
「甘い方が好きですから、ありがとうございます」
「なんくるないよ。ってテーブル散らかりっぱなしだぞ! うああ! 恥ずかしいぞー!」
慌ててテーブルの上に散らばっていた雑誌を適当に集めて床に置く。うん、私が知っていた響さんもちゃんといるんだ。なんだか安心した。
「よしっこれでオッケー! それでやよい、亜美とどんな喧嘩したんだ?」
いよいよ本題と言わんばかりに私の隣に座る響さん。ちなみに響さんが飲んでいるのはブラックコーヒーだ。すごく大人っぽい、は失礼かな?
「あ、あの。面と向かって喧嘩してるわけじゃなくて」
「電話とか、メールでやらかしちゃったのか?」
「そうでもなくて、何て言うんでしょうか。そもそも喧嘩って言うのかなーって」
「んー? でも亜美とあんまり話せてないんだよね?」
「確かにそうですけど、それはお仕事とかで会えないってこともあるので」
「それこそメールや電話とかがあるぞ? 話せる機会はたっくさんあるんだぞ?」
確かにそうだ。いくら忙しくても私や亜美はまだ子供だから夜のお仕事はできない。だから夜なら電話することもできる。それなのにそうしようとは思わなかった。
メールや電話なんかじゃ伝わらないから? そうだとしてもいつ会いたいって約束をすることはできる。私は、いつでも亜美と一緒にいることができた。
でもしなかった。何故?
「…やよい?」
「…響さん、私どうしちゃったんでしょうか? 響さんの言うとおり亜美とはいつだって側にいられるのに、私、私」
体と、心が、震える。一度も口にはしなかった、しようとしてもせきとめていた、私のほんね。
「……………怖いんです」
遂に言ってしまった。亜美を照らしきるその日まで封印していた言葉。亜美に対していつも心のどこかで思っていた言霊。
私は亜美が怖かった。どうしようもなく怖かった。言い表すことができないくらいに怖かった。だから、亜美に近寄ることができなかった。
そう、認めてしまった私を。
「やよい、泣いていいんだぞ?」
響さんは優しく抱きしめてくれた。私は今まで溜め込んでいた分、瞳にだけ溜めていたものだけじゃなく心の隅々の涙の一欠けらも漏らすことなく泣いた。
鼻水が出て、よだれが垂れて、顔が泣きはれるまで。響さんの服が私の水でずんと重くなるまで、ただただ泣いた。
「なあ、やよい。確かに亜美は変わっちゃったよ。うん、自分も怖いって思う」
私は泣いている。
「スターレスを聞いたときは何もできなかった。あやうく次の日の仕事をすっぽかしちゃうくらいさ」
私は泣いている。
「多分やよいと自分だけじゃなくて、みんなそう思ってる。亜美はそれくらいすごいとこまで行っちゃったのかもしれない」
私は泣いている。
「昨日、貴音が亜美と一緒に帰ったんだって。でもやっぱり、私の知る双海亜美には程遠く、皆が愛した亜美ではありませんでした、って言ってた」
私は泣いている。
「すごく残念そうだった。自分、何で残念だったのか分かるんだ。あんなになってしまったこととかそんなことが残念なんじゃない」
私は泣いている。
「もう自分たちじゃ亜美は取り返せない。あの絶望とかいう憎たらしい奴から、自分たちじゃ亜美を救い出せないのが残念だって、きっとそう思ってるんだぞ」
私は泣いている。
「でもね、やよい。やよいは違うんだよ」
私は、泣いている。
「やよいが亜美を怖いって思ってるとき、亜美もまたやよいを怖いって思っちゃうんだぞ。だから二人は仲直りできない、亜美は自分を取り戻せないんだ」
私は、泣いて、いる。
「だからさ、亜美のことを怖いなんて言っちゃダメだぞ。そんなの、悲しいからさ」
私は、私は。
「だってやよいと亜美は最高のライバルで、友達じゃないか。救ってあげなきゃ」
「……なら助けてくださいよ」
響さんは何も言わない。
「私だって、私だって―――!」
私は響さんを突き飛ばした。
響さんは何も言わない。
「あんなに仲が良くて! 売れてないときはいつも一緒にいて! 一緒に買い物をして!一緒にお掃除をして!一緒にトイレに行ったりもして!一緒にTVを見て!一緒に手を繋いで!一緒に泣いて!喜んで!笑って!私と一緒にいてくれた亜美を救ってあげたい!」
無音。
「でもだめだった私のキラメキラリじゃだめだった! そんなの誰の目から見てもわかるじゃないですか! 亜美のスターレスを聞いてどうしてまだ救えるなんて言えるんですか!」
無音。
「私なんてただ元気で声が大きいだけの何の取り柄もないアイドルですよ!? 千早さんみたいに歌はうまくないし美希さんのように表現力も豊かじゃなくて響さんや真さんと違ってダンスもへたっぴだしあずさんのようにすたいるだってよくないんですよ!?」
無音。
「そんな私がどうしてスターレスを歌った亜美を救えるって言うんですか! それはプロデューサーの役目じゃないんですか! どうして私一人がこんなに苦しまなきゃ、いけないんですかあ!」
無音。
「……私だって、私だって」
亜美を。
「亜美を、助けたいよぉ……」
無音、ではなかった。
「……やっと言ってくれたぞ」
「…え?」
「やよいはさ、どうして一人で解決しようとしてるんだ? 亜美のヒーローにでもなるつもり? そんなものになりたくてひとりで救おうって思ってたのか?」
「ち、違います!?」
「なら、一人でだめならみんなでだぞ。やよいがそうしてくれなきゃ、言ってくれなきゃだめだったんだ。やよいがそう望まなきゃだめだったんだぞ」
響さんを見ると、乾いた泣き笑いのような表情をしていた。
「だって、やよい以外の自分たちアイドルはさ、亜美のために泣けなくなっているから。亜美の前になんて立つなんてもうできないんだ」
「で、でも四条さんは!」
「貴音、あの後倒れたよ。心労からくる一時的な体調不良だってさ。ここ最近は調子良かったのに、亜美と近距離で話しただけでそれだけになった。自分も、そうなると思う」
響さんの体が震えている。亜美のことを考えているから?
「自分たちは救いたくても救えない。だってもう側にいることすらできない、もう亜美のことで泣くことすらできない。でもやよいは違うぞ」
ゆっくりと私をまた抱きしめる。でもさっきより頼りなかった。まるで別人のようだった。
「やよいは亜美のためにあれだけ泣けた。自分たちのように側にいることができないわけじゃない。それが『アイドル高槻やよい』の強さだと思うぞ」
「…アイドル高槻やよい?」
「確かにやよいはダンスも歌も表現力もお世辞にもうまいとは言えない。だけど、誰かとの間に壁を作ることなんてしない」
壁?
「誰だって、嫌いな人苦手な人はいる。自分にも春香たちにもプロデューサーにも、あの亜美にでも。だけどやよいにはそれがない。見渡す限りに壁なんてないんだぞ」
嫌いな人や、苦手な人は確かにいないけど。それが亜美を救えることとどう関係があるのかわからない。
「やよいは誰でもその人のことを好意的に見ようとする。悪いところじゃなくて良いところを見つけようとする。それはすごいことなんだぞ。だからこそ今この世界で『アイドル双海亜美』に壁を隔てることなく接することができる、たった一人の存在なんだぞ」
「亜美に?」
「そうだぞ。…情けないけど、自分が亜美と話そうって思ったらもう何もできないぞ。さっきは軽はずみで喋るなんて言っちゃったけど、実は嘘なんだ。見かけるたびにぶるぶる震えてた。一緒に散歩してたイヌ美だって一歩も動こうとしなくなるんだ。それは自分だけじゃない。大げさかもしれないけど、多分この地球上に双海亜美と側にいて話せる人はもうやよいしかいない」
「でもプロデューサーは亜美と普通に」
「最近、亜美とやよいのプロデューサーが亜美の隣にいたって話し、聞かないぞ。いっつも距離を取っているって」
「じゃ真美は」
「真美は、亜美を肯定してるぞ。だから亜美が望んでいたもう一つの『アイドル双海亜美』をやってる。亜美に見てもらうために、そして亜美を今の亜美に走らせるために。だからもうやよいにしか亜美を止めるきっかけは作れないんだぞ」
「きっかけ?」
「うん、物事が動き出すときにはきっかけがある。『アイドル双海亜美』の絶望にも何かきっかけがあったはずだぞ。だからそれを終わらすためにもきっかけが必要なんだ。だけどみんなはもうそのきっかけにすらなれない。だからこそやよいがきっかけになって、初めて自分たちも動けるようになるんだ、亜美の絶望を終わらすための」
亜美の絶望を終わらすためのきっかけに、私が? でもきっかけになってどうなるんだろう? 結局は前の私と同じように絶望に飲み込まれるだけじゃないのだろうか。
「スターレスが発表されたときやよいは一人だった。誰の力も借りずになんとかしようと頑張っていたんだ。だから飲み込まれた。じゃどうすればいい?」
「みんなで、照らす…」
「そうだぞ。やよいがきっかけになって、やよいが自分たちを呼んでくれれば自分たちは駆けつけることができる。亜美の側に、やっとね。だからやよい、負けないで。亜美を救えるのはやよいだけ。だから亜美のことを怖がらないであげて、壁を作らないであげてほしいぞ」
響さんが震えている。きっと、私にこんなことをお願いするのが辛くて。きっと、亜美を自力で助けられないのが悔しくて。
私は、そっと響さんを抱きしめ返した。
揺らぎながら、私は考える。もう一度、亜美を救おうと。決心ほど強くもない思いで。そんな心に芽生えたぐらぐら揺れる私の本心。一度覚えてしまった怖さは完全には忘れられないから。
どうすればいいのだろう? 私がきっかけになる、きっかけがおこらないだろうか?


あれから、ロコツに亜美を避ける人が出てきたよ。テレビ局の人たちとかさ、それこそファンの兄ちゃんたち姉ちゃんたちの中にも。
ハンメン、ネッキョーテキなファンにも困ってないんだけどね。
「んー、ま、ちかたないか」
うん、ちかたない。亜美のゼツボーとアイをリカイしてくれる人がいて、リカイできない人がいて。そんなの当たり前ジャン?
しっかも亜美のゼツボーはなかなかカンセンリョク高いみたいだしね。だからダブルミリオンも売れたんだしね。あ、チガった。亜美の分は半分だから、ミリオンか。
…あー、『アイドル双海亜美』はトップに立ったけど、亜美はトップじゃないんだよね、実はさ。
「んー、ま、いーけどね」
亜美のユメはトップになることだったけど、そのカクシンは兄ちゃんをトップアイドルのプロデューサーにすることだから。亜美が亜美ヒトリでトップに立たなくても良いんだ。
「んー、だから、そーだよね?」
ジモンジトウしてみる。亜美のユメはかなった。兄ちゃんのユメをかなえるっていう、亜美のユメは。
今の私はユメのかなった兄ちゃんをながめているだけのカンタンなオシゴト。もうメインは終わったよ。アルバムのリストには載っていないボーナストラックみたいなものかな。
「んー、でも、そろそろかな? もうそろそろかな?」
私はも一つジモンジトウしてみる。私が今いるステージ、ここはタシカに目指していたところだけど。私はここも、フリステて行かなきゃならないんじゃないかな?
まだ答えが出てないんだけどね、亜美も。

次の週には亜美のオシゴトは目に見えて減ってきちった。あ、『アイドル双海亜美』はオオイソガシだけどね。
前からそんなカンジだったけど、兄ちゃんはイヨイヨ亜美にはバラエティーとかCMとかのオシゴトをふんなくなった。ゼンブ真美がやってる。亜美のトコに来るのは歌のオシゴトだけだ。
それだって亜美の「スターレス」より真美の「スターライン」のほうがいいって人はたくさんいて、真美がやることも多いし。
真美ばっかイソガシくてさ、真美には悪いなあって思うよ、ホントにさ。
「まあ、アンノジョー、だよね」
兄ちゃんと真美がいっしょにオシゴトに行ってるから、私はジムショでのんびりしてる。やっぱりレッスンはダメだってさ。
タイクツだから、いおりんがCMしてるオレンジジュースのパックのシキョーヒンに息を吹き込んでぶくぶくしてみる。
「ソンナモノかもね」
やっぱり亜美も次のステージに行かないとならないのかな。『アイドル双海亜美』のホンリューは真美がやるから、亜美はニッチを攻めないと。
亜美のゼツボーとアイをリカイしてくれる人は、それでも百万人もいるんだから。んふ、ちっともニッチじゃないね。
でもシャチョーが言うには今の流行は「楽しく」だから、もう悲しい歌はハヤリじゃないから。
「やっぱりニッチだよね、亜美の歌は。でも、このニッチが好きな兄ちゃん姉ちゃんたちは、亜美のゼツボーをまだまだキタイしてるし」
キタイには応えないとね。ホラ、亜美はアイドルだから、これでもね。
「たっだいまー!」
「ただいま戻りました」
あ、真美と兄ちゃんがジムショに戻って来た。

そのまま三人で打ち合わせになった。あ、三人ってのは亜美と真美と兄ちゃんね。亜美と真美が並んで座って、兄ちゃんはテーブルの向こうに座ってる。
兄ちゃんが言うにはね、『アイドル双海亜美』のファーストアルバムを出すんだってさ。
「デビューからもう三枚もシングルを出してるからな。タイミングとしては遅いくらいだ」
兄ちゃんは言う。あー、そーかもね。シングル曲A面B面ゼンブ入れたらそれでアルバム半分くらいうまっちゃうし。
「作曲家の先生にはアルバムを前提に新譜をお願いして来た。予想以上に良い曲が来たらシングルカットして同時発売も視野に入れてるからな。そうそう、亜美」
兄ちゃんは亜美の名を呼んだ。でも兄ちゃんはシリョーを探すフリをして亜美を見なかった。うん、兄ちゃんとはなかなか目が合わなくなったな。
「先生が、また作詞をやらないかって言ってきてる。『スターレス』みたいなアレンジじゃ無くて、一からいっしょに歌を創らないかって」
わお、それはすっごいハナシだね! まるで千早お姉ちゃんみたいだ。オモシロそだね。すっごくオモシロそだね。でも、
「うん、セッカクだけどそれは止めとくよ、兄ちゃん」
私は答えた。兄ちゃんがオドロいた顔で亜美を見る。あ、やっと目が合った。
今日ハジメテだね。
「…そうなのか? てっきり亜美は飛び付くと思ってたんだが」
飛び付いてもいーかなって思うよ亜美も。でも、
「ジブンで言うのはナンだけど、『スターレス』はケッサクだったよ。今の亜美には、あれイジョーのナニかはないから。おんなじものをサイセーサンしてもしかたないジャン?」
うん、そんなんイミないよ。それに、
「それに、サイシンの流行は『楽しく』だからさ、亜美の歌はハヤんないよ。亜美は『スターレス』さえ入れてくれれば、それでいいから。真美が楽しい歌をたくさんシューロクすればよいと思うよー」
その方が売れるよ、きっと。『アイドル双海亜美』はトップアイドルだから、ヤッパ売れなきゃダメっしょ?
「…そうか、亜美がそう言うなら良いか。真美はどうだ? また負担が増えるわけだが」
兄ちゃんは真美にたずねて、真美はリョーショーした。でも私はちゃんと見てたよ。兄ちゃんが小さくため息を吐いたのを。
アンシンのため息を吐いたのを。
ま、いーんだけどね。
「それよかさ、兄ちゃん? 兄ちゃんにお願いがあるんだけど、いい?」
真美のほうを見ていた兄ちゃんのほっぺたがひくってした。コレも、ま、いーんだけどね。ソーテーのハンイナイだよ。兄ちゃんはキンチョーした顔でゆっくりと振り向いた。
「何だ、亜美?」
兄ちゃんが亜美を見るよ。
オビエた目で亜美を見る。
ダイジョブだよ兄ちゃん。
亜美が兄ちゃんを助けてあげるから。
亜美は兄ちゃんをクルシメたくないから。
「お休みくれないかな? 一日とか二日とかじゃなくてさ、何週とか何ヶ月とかさ」
「…休みたいのか?」
兄ちゃんはハトがマメデッポーくらったみたいにぽかんとした。んふふ、かわいいね兄ちゃん。
「疲れでもたまってる感じか? まさか心を病んだか? あんな歌ばかり歌ってるから」
兄ちゃんがすぐさまシンパイそうなヤサシイ顔になる。まだ亜美は兄ちゃんにシンパイされてるね。ウレシイなあ、胸がトキメキしちゃうよ。でも、コレじゃダメなんだな。
「オシゴトしてるとさ、どうしてもみんなに会えちゃうジャン? みんなシンパイしてくれてさ。ウレシイけど、これじゃゼツボーをためられないんだよ。深められないんだよ」
今の亜美が持ってるゼツボーじゃダメなんだ。足りないんだよ。新しい歌を創って、歌うにはね。私は新しいナニかを、私にしかプレゼントできないナニかを、兄ちゃんに贈りたいんだよ。
「だから、オシゴト休みたいんだ。誰とも会えないようにするために、ヒトリキリになるために。そんで亜美はゼツボーと向き合うよ」
みんなと、誰よりも兄ちゃんと会えない日々。ああ、ソーゾーしただけでシンからフルエるよ。
さむい。さむくて冷たい。亜美は冷たく冷たくなったカラダとココロを抱えて、ゼツボーをユメ見るんだ。テレビの向こうでカツヤクするみんなを眺めながら。
真美ややよいっちがカガヤいてるのを眺めながら。
「ゼツボーがぎゅうぎゅうに固まってケッショーみたくなったら、兄ちゃんに電話するよ。『スターレス』を超えるよなゼツボーが見えたら、亜美は歌を創って歌うよ。だから、それまでは休みたいんだ」
亜美がそう言ったら、兄ちゃんも真美もだまっちった。ナンとも言えないよな顔で亜美を見てるよ?
「ドシタの? 二人とも」
「ドシタの、じゃないよ亜美ー!」
わ、隣の真美が急に立ち上がった。
「まだゼツボーをためこむの? 『スターレス』じゃ足んないワケ?」
「足んないよ。ゼンゼン足んないよ」
私は真美に言い返す。
「今の亜美じゃ『スターレス』がゲンカイ。『スターレス』よりもカナシイ歌は歌えないよ。でも『アイドル双海亜美』はトップアイドルなんだから。もっともっとツラくてカナシくて、それでも生きるチカラをわきおこすよな歌を歌わないと、ダメっしょ?」
うん、ダメだよね。おんなじナニかじゃダメなんだよ。もっともっと深い深いゼツボーじゃないとね。
「だから兄ちゃん、お休みちょうだい? 亜美はトップアイドルでいたいんだ。そのためにはヒトリのジカンがいるんだよ。いいっしょ?」
それに、兄ちゃんも亜美とはキョリをとったほうがよさそだしね。兄ちゃん私といるのツラそうだし。
私は兄ちゃんをクルシめたくないから、兄ちゃんは『アイドル双海亜美』を見ててくれればよいから。兄ちゃんにはアッタカでいてほしいから。
「…いいぞ、亜美」
兄ちゃんは、ユーレーみたいな声で言ったよ。それはちっと気になったけど。私は飛び上がってヨロコブ。
「やったー! ありがとう兄ちゃん!」
これで『アイドル双海亜美』はトップアイドルでいられるよ。私は兄ちゃんを、トップアイドルを担当するプロデューサーにしていられるよ。
「…ああ、好きなだけ休め。社長には俺から話を通しとく」
かさかさな、うんと乾いた兄ちゃんの声。ごめんね兄ちゃん。でもありがとうね兄ちゃん。兄ちゃん、ダイスキだよ。
「! 兄ちゃん、兄ちゃん何考えてんのさ!」
その時、真美がナニかに気付いた顔で叫んだ。ケッソー変えて兄ちゃんに詰め寄ってる。真美、いったいドシタのさ?
「…ああ、社長に話す。俺にはもう亜美のプロデュースは無理だって。真美をちゃんと『アイドル双海真美』にして、ソロデビューさせる。だから亜美は休んでいいぞ、ずっと」
…え……?
「…兄ちゃん……?」
キキチガエたのかな? そうだよね、キキチガエたんだよね? 亜美はかなえたげたよ。亜美がかなえてあげたんだよ。
担当アイドルをトップアイドルにするっていう、兄ちゃんのユメを。ココロをスリ切らせて。カラダをボロボロにして。
「…俺には、亜美が理解できない。理解できないアイドルをプロデュースはできない」
兄ちゃんは言った。亜美の目を見つめて言った。泣きそうな目をして、歯をクイシバッて、でもハッキリと言った。
「兄ちゃん、兄ちゃん、ナニ言ってんのさ! ホラ亜美に謝って! ヒドいジョーダンだったって言って!」
真美が、兄ちゃんのえりをつかんでウッタえてた。あは、ダメだよ真美。兄ちゃんはホンキだもん。亜美にはわかるよ。
「…ああ、これが、これがホントのゼツボーなんだね。うん、知らなかった。今まで亜美が歌ってたゼツボーは、まだまだ浅かったね。これが、ホントのゼツボーなんだ」
ダメだ。これはダメだよ。こんなものに、たえれる、はずないジャン?
「あは。亜美は、コワれる、よ。もう、コワれ、ちったよ」
ぶつん、亜美のイシキはソンナ音を立ててちぎれた。
2012.12.25 Tue l アイドルマスター l COM(0) l top ▲

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